ヨガ哲学からの学び

以前Profileの投稿のヨガへの想いで

’ポーズに必要な筋力がつき「体」が丈夫になると、「心」にもタフさが生まれます。ヨガ哲学を学ぶと思考「マインド」にも大きな変化が生まれます。(別途このお話はまたしましょう)’

と書いた具体的な内容を、こちらへ少し記載します。

皆さんは聞いたことがありますか?

「ヨガとは心の作用を止滅させる」

これはヨガスートラ1章の中にあり、大変有名な教えです。(ヨガインストラクターさんたちは、スクールでも必ず聞いて学ぶはず・・)

初めて読んだときには、正直「え?心をなくす、止めるって怖い」と思ったのですが、この言葉の本意は実際に心を消すことが目的ではありません。

①「私って誰?」と考えたとき

「心」はおそらくアムステルダムにいる=私、ヨガインストラクター=私などとタグ付けするような「役割、肩書きや経歴」「環境や年月」「思考の変化で変わるもの」に囚われで、枠をつけて自分を決めることを行います。

では、ヨガインストラクターでなくなったら私ではないの?と言われたら私は私ですよね。アムステルダムから引っ越しても私は私です。頭では理解できますが、言語化しようとするとできますか?・・・私って、いったい誰?

②教えにある私とは?

私=状況が変化しても「変わらない部分のこと」

自分の「本質」「真」「自分」とは「変わらない部分のこと」

そこに辿り着く作業のために、あれこれお話ししてくる「心」の作用を死滅させるという理由がここで理解できるのです。それは自分の作り上げたイメージやあらゆる思い込み、自分の思考の決めつけからの自由になれる、解放されることだと学びます。

じっくり考えても、どういうこと?最初はわからない・・と感じる方もいらっしゃるかもしれません。ですがこういった「気づき」の作業で自分の「舵取り」をごまかさないでいくことを繰り返すうちに、いつしか自分(人間)の都合のいい解釈や見解の「エゴ」も見えてきたり、向き合うことが多くなりました。

例えば「ありのままの自分でいたい」と考えた時、実際に「ありのまま」となれば、それはエゴやプライド、人の内側にある醜さや執着という感情を持ち合わせていることにも、目を向けないわけにはいきません。

さらに心が生み出す「ネガティブな影」といいますか、自分が決めつけてしまうフィルターにも向き合って切り離したり、紐解く、気づいていくことも必要です。

考える作業は苦しいかもしれないけれど、私はその作業を抜いて「表面」だけを整えていても穏やかで安定した心身と、陽あたりのいいお部屋にくつろぐような状態を保ち持続することは難しいのではないかと思うのです。

自分の弱さや脆さに気付き、もがくうちに気づけば「前の私よりはいい感じ」になるのかもしれないですよね。人は「揺れ幅のあるしなやかな軸」があればいいんじゃないかなと思うのは、この感覚があるからです。

完璧を求めるほどに、生きづらく、違いを気にするほどに、否定的な決めつけも始まります。現代のヨガは、エクセサイズの要素を全面に出すクラス、瞑想や精神性を主にするクラス、オリジナリティで、ニーズを生むクラスと多種多様。

国が変われば、ヨガも変わり、伝承されるものや、消えゆくもの色々あるはず。自分の「当たり前」は決めつけであると思えると楽ちんですよね。

昔は、これ本当のヨガじゃない!とエクセサイズ度の高いヨガを否定しがちな時もありましたが、そもそも本当とは?いつの何をさすのかな。笑

伝承されてきた、はるか4.5000年も昔から変わらないものも、変わるものもある。現世の人が生きやすいように、修行を続けていた賢者たちの智慧の、ほんの上澄みを「お借り」できたらありがたい・・・

とっても奥深いものであるのだと、敬意を払って、ヨガに携わるものとして担っていきたいと考えています。

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